娘たちのこと
私たち夫婦は東京生まれで、戦争などで離れた一時期を除いて、東京を離れたことはなかった。結婚後はかみさんの実家で暮らしていたが、昭和45年に神奈川県の座間市に引越した。という訳で、二人の娘たちは、葛飾の柴又で生まれたが、神奈川県で育ち成人した。娘たちのことは、かみさん任せで、私が関わったのは娘たちの大学進学時の進路相談でそれぞれの担任と面談したくらいであった。長女は厚木市、次女は大和市の県立高校を卒業し、それぞれ大学に進学した。大学を卒業した昭和60年代では、まだまだ女性の就職は容易ではない時代であった。私の経験では英語力かコンピュータ技術の技能を身に着けているのがいいと判断された。娘たちにそのようにアドバイスし、目指す大学の旧知の教授に引き合わせアドバイスを受けさせたりした。最終的には自分自身が判断したが、結果的に長女は、コンピュータソフトを学べる学科のある国立大学に、次女は自宅から通える留学制度のある大学の英米文学科に進学した。 当時、コンピュータソフトを教える学科を持つ大学は稀で、たまたま娘たちが通学で利用していた小田急沿線の秦野市に該当する大学があった。長女には入試経験をさせる意味で、この大学の受験を勧めた。合格通知を受けて諸手続きのためその大学を訪問したかみさんは、事務室に呼ばれた。待機していた事務長から「開学以来、入試試験で満点を取った受験生は初めて」と、英語と数学の答案を見せられた。大学としては、特待生として迎え、大手企業への就職も約束すると入学を勧められたという。どうするかの判断は娘に委ね、長女は国立大学を選んだ。 卒業時には、当時、多少顔をきかせる自負もあったので、娘たちから相談があると期待していたが、二人ともさっさと自分の就職先を決めてしまった。ただし、次女は大学三年時に米国に留学していたので、就活を早くから行うことなくその年の終わりに帰国した。私は取引先の大手の印刷会社に試験を受けさせてくれるよう依頼した。娘は面接などの入社試験を経て内定をもらった。しかし英語力が活かせる外資系の企業に行きたいとのことで、内定を断った。後に、この世界的な大企業では、内定を断られたのは初めてといわれた。
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次女、大学院卒業時
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次女、アメリカ在住画家 (Homare Ikeda)
との結婚式にて、家族と。 |
娘たちは、二人とも音楽や絵が好きで高校時代には音楽関係の部活動をしていた。長女には、双子の娘がいて子育てなどに追われ、もてる才能を活かす機会が多くない。長女が会社員時代に描いた井の頭公園の油絵は、今わが家の居間に飾ってある。次女は、YouTubeに歌や楽器演奏の動画をアップしたりしながら、活動的に過ごしている。
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