ビジネスコンサルについて 1995年10月に紀伊國屋書店常務の職を任期途中で辞した翌年、1996年1月に国分寺の自宅を拠点に、三浦事務所を開設した。以来、2000年4月に実践女子短期大学の教授に就任するまでの4年間、コンサル業を営んだ。そもそも紀伊國屋書店から身を引いたのは、1971年から20年余にわたって従事してきた情報事業の担当を解任されたことによる。英国図書館や富士通などとの共同事業により社に損失を与えたというのが直接の理由であった。もともと地味な書店にあって、メディアへの露出も多く、業界活動や学会活動を行っていた私の振る舞いに対する社内の批判が大きかったことが主因であろう。最新の情報技術と高度な人的能力に支えられ、通信を通して目に見えない情報を社会に提供するという業務は、書店の枠を超えたものであった。渋谷に新しい事務所とセミナー室を設けたとき、視察に訪れた副社長に、ここは外資系の会社だと言われたのは象徴的であった。社長には分社化も勧めたが、子会社は結局親会社の負担になるだけと一蹴された。 楽天の創業は1997年、アマゾンの日本での業務開始は2000年であったが、紀伊國屋書店は、1970年代末には、コンピューターと通信を使った情報ビジネスを行っていた。仮定の話になってしまうが、情報事業部門を分社化して自由な活動環境を作っていたら、あるいは新たな展開を遂げていたかもしれぬ。私の許にアマゾンの代理人が、紀伊國屋との業務提携の打診に訪れたことがあり、松原社長に取りついたがメリットがないと断った。松原氏は根っからの書店人であったがために、自社の書店経営に寄与しないと判断したことは、排除した。一例になるが、1971年に米国物理学学会(AIP)で、SPINというデータベースの日本での使用契約を行ったときの担当者のDr. Kochが後に学会長になっており、同学会の出版物販売の日本総代理店に紀伊國屋を指名した。当時、同学会との取引は僅かであったが、最先端のデータベース開発の責任者であった同氏は、紀伊國屋を高く評価していた。このように、紀伊國屋書店は情報事業の推進によって内外の取引先、国内の大学・企業などの取引先に対し、社のプレステージを高めた。この事業部門を育て・推進してきたという自負もあったので、担当部門長を解任された失望と屈辱は大きく、辞職につながった。 しかしながら、この情報事業の推進のために、私の手で招き入れた多くの人達の梯子を外してしまうことになってしまい、退職後も忸怩たる思いを抱き続けていた。だがその後、多くが大学の教職や、技術と知識を買われて、取引先であった欧米の大手出版社や情報サービス会社に転身できている。私が育てた情報事業で修得された技術や知識が、教育の場、企業などの情報部門で有用なサービスとなって現在も継承されていることは喜ばしい。また、紀伊國屋書店での情報事業を1972年当初の ASKサービス開始のときから、この事業を支えてくれた、冒頭の「業績」の項で紹介した高橋・荒井・根本の3氏とは、現在に至るまで交流がある。紀伊國屋離職後30年近くたったが、かつての仕事仲間と今も行き来できていることも嬉しい。 コンサル業の4年間は、大樹のお陰を被った35年間のビジネス時代には味わえない経験ができた。ここでも紀伊國屋書店の前常務という経歴は役だった。国内では幸い、上場会社を含め3社と顧問契約が成った。しかし、その上場企業からの出資で新しい情報サービスを起業すべく準備を行ったものの、信頼していた社員に不正があって頓挫し、即、職を辞してしまった。とんだ滑り出しになったが、直後に海外の情報サービスベンチャーとコンサル契約をすることができた。Infonauticsという会社であったが、日本への進出をはかるための提携先を求めていた。私の得意分野であり、2年間にわたり幾つかの会社との交渉の仲介を行ったが、この会社自体が、米国の大手企業に買収され、ピリオドとなった。他の1社はイスラエルの図書館システムの開発会社、もう1社はヒラメの養殖会社であった。いずれも日本への進出を企図したものであった。両社とは、紀伊國屋時代の取引先として親交のあった人物からの紹介と依頼であった。ヒラメの養殖は全くの専門外であったが、養殖の業界団体・関連学会の幹部との間を取り持ち、養殖の展示会への出展のアレンジもした。全くの畑違いであったが、結構うまく役割を果たすことができた。 またイスラエルの会社はExLibrisという図書館システムの大手企業で、日本進出を企図していた。日立など主だった図書館開発会社へ紹介の努力をしたが、私の手では提携先を紹介できなかった。紀伊國屋にも紹介したが、当時同社はIBMの図書館システムの販売代理店であったので、不調であった。しかし、2020年に同社は紀伊國屋書店と成約している。 ここで、コンサル時代の4年間に感じたことをまとめてみたい。 ・日本の大手企業をスピンアウトして独立して起業を試みた幾人かの人物とも交渉があったが、成功事例を見たことがない。 ・海外企業の場合、起業の時から世界戦略を構想し、優秀な人材を配置している。彼我の相違を強く感じた。 ・日本では、前職の企業やそこでの肩書が大きな意味を持つが、欧米にあっては、その人物の実績しか評価されない。 ・欧米の企業では、日本への進出時などには現地でコンサルタントを雇うのが常套的であるが、日本企業ではコンサルタントそのものに、金を払って業務上の相談をする習慣がほとんどみられない。 ・短期を含め、それなりの企業とコンサル契約を行った行きがかりで、6社に出資したが、1社を除き、不調に終わった。 いずれにせよ、コンサルをやって、改めて組織のバックがあって、その基で自らが実践できることのありがたさを痛感させられた。 |