Isao Miura
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自治医科大学のこと

 
  1971年(昭和46年)の自治医科大学新設時に、その図書館蔵書の収集・調達を一括して受注し、図書館作りに協力した。私の紀伊國屋の洋書部での最後の営業の仕事になった。
自治医科大学は、地域医療の担い手になる人材を、全国各地から募って育成することを目的として、1971年初に都道府県の強い要望で設置が決まったものである。私は、この大学設置の準備室が、平河町の都道府県会館内にできたことを、小さな新聞記事で知った。そのころ私は、千代田区と港区を中心としたエリアを担当していたので、早速準備室を訪れた。訪問してみると、広い部屋に大きな机が置かれ、そこに自治省から出向してきた、それなりの地位と思われる人物が一人座っていた。

 その人物(恐らく後に、福井県副知事に転出した西川一誠氏だったと思う)は、医学部新設の経験者ではなく、準備室を初めて訪れてくれた関係者といわれ歓迎された。私は同氏に大学設置の蔵書に関する規定は厳しく、国内の医学専門書を全て収集しても、到底規定数を満たせないことを伝えた。1972年開校を目指すのなら、直ぐにでも洋書の手配をしないと間に合わない、また医学専門雑誌についても、多くの外国雑誌を予約する必要があると説明した。洋雑誌の場合、1972年発行の雑誌については前払いの必要があり、そのための予算措置が必要なことも話した。何度か同氏と面談し、同学の教授陣は東京大学医学部の教員が中心であることが分かった。そして、図書担当として医学部助教授の倉科周介氏の紹介を受けた。
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 しかしある日、東大の先生方は洋書の医学書は丸善と相場が決まっている、ほんとに紀伊國屋で大丈夫かと危惧しており、教授予定者たちが紀伊國屋との面談を希望しているといわれた。この面談は、東大内で行われたが、私は慶応大学医学図書館の津田良成氏(後に慶応大学図書館情報学科主任教授)から、アドバイスを受けていたので、望むところと面談に臨んだ。津田氏からは、米国の医学図書館が義務付けられている専門雑誌・図書・参考図書のリストを貰い受け、それらをベースに、蔵書収集の方針を説明した。結果的には、問題なく受注でき、総額は当時の金額で3億円に達した。50年前の3億円は大きく、おそらく洋書業界では、最大級の受注金額であったろう。

 文部省の医学部図書館と蔵書に関する基準は、常識的にもそれを満たすのは大変困難な規定だった。医学図書館の主任となるライブラリアンを決めておく、収集した図書の閲覧カードを整える、蔵書目録を作る、などであった。それらを1971年中に整えなければならず、それは至難なことだった。人材については、倉科氏と共同で動き、民間から優秀な人材の確保ができた。最難関の医学専門書の分類を年内に終えるのは、とても不可能なことだった。このことも、津田氏に相談したところ、慶應の医学図書館の図書閲覧カードを全てコピーして、それを利用して分類カードを作ればよいとの、アドバイスを受けた。これは、大変な荒業であったが、津田氏の医学図書館新設についての深甚な理解のお陰で実現できた。さらに、一般図書もしかるべき監修者の監修された図書の選定が要求されていた。これも、津田氏の紹介で、しかるべき人が推薦され監修者として協力をえた。この一般書についても、分類カードの作成が要求されており、分類は国会図書館と慶応大学の大勢のライブラリアンに、紀伊國屋の社屋に休日出勤してもらい、作業を完了することができた。このように、受注者は単に本や雑誌の調達だけすればよいと、いうものではなかった。

 文部省の大学設置審議会
には、専門書・一般書、雑誌についても専門雑誌・一般教養関連雑誌の選定基準や収書の方針・理念を文書にする必要があったが、多くの方々の協力をえて提出できた。この大学が設置認可されたのは、1972年(昭和47年)2月であったが、その前に図書館への立ち入り検査があり、クリアーしていた。倉科氏とはその後も交流があり、私が胆のう切除の手術を受けたときにも、アドバイスをうけた。同氏は、自治医科大学の教授を経て、都立衛生研究センターの所長に就任した。
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