松原治氏のこと
松原治氏は、紀伊國屋書店の創業者でオーナー社長だった田辺茂一氏に招かれて重役になった。私がこの会社に入社したのは、1961年(昭和36年)で、当時松原氏は常務であった。氏は、新宿の個人商店に過ぎなかった書店を、押しも押されぬ企業に育てあげ、出版業界での書店の地位を高めた功労者であったことは、余話の「紀伊國屋書店のこと」で記したとおりである。当時、資本と経営の分離がトレンドになっており、紀伊國屋はその成功例である。同氏は、自ら常務ー社長ー会長と昇進させるなか、新宿本店ビルの建設、大阪梅田への進出、そして米国サンフランシスコなど海外への進出など、紀伊國屋のハード・ソフト両方の揺るぎない基盤を築いた。なにより当時、書店の適正規模は20坪といわれた時代に、新宿と大阪の梅田に数百坪の店舗を展開し、業界常識を覆した。 松原氏は、書店業界の経営者では稀な東京大学法学部の出身者で、東大では中曽根康弘氏と同期だった。また、陸軍経理学校を首席で卒業している。酒席等で、当時第一勧銀の頭取をしていた人物が次席だったと語っていた。私がシステム開発部長のとき、当時社長だった松原氏は、開発会議というのを定例で開いていた。コンピュータ導入の成果がでて、社内の電算化が進んでいた時期だった。この会議には、在京の役員全員と会議のテーマにより、関連の担当部長をも出席させて、事実上経営面の意思決定機関になっていた。私は会議の事務局を担当し、毎回メンバーから議題を聴取して、会の進行に当たっていた。和書・洋書部門の両副社長をはじめ毎回十名ほどが参加し、全社に及ぶテーマが論議され、その議事録は私が作成していた。テーマは多面にわたるもので、会議での松原氏の発想・発言内容は、いつも新鮮で抜きんでていて、他を圧していた。 このサイトの冒頭で触れられている、米国のOCLCからの提携の申し入れを受けるか否かも、この会議の場で論議された。洋書部門の担当役員は、ライバルの丸善が、カナダのアトラスという類似のサービスの代理店になって先行していたこともあって、二番煎じだと強く反対した。このとき、和書部門担当の副社長が、「先方からオブリゲーションなしで申し入れてきてくれているのに、なぜ断る。やればいい」と発言し、社長も同調して、提携は決まった。OCLCは非営利法人のため民間企業との提携を望まず、文部省の学術情報センターに提携を打診していた。しかし、当時同センターは電算目録作成の事業化を目指していたので、OCLCとはある意味、競合関係にあった。紀伊國屋が代理店になれたのは、このような事情もあった。OCLCは、後には、米国の議会図書館が国家事業として行っていた、図書目録作成業務も引き受け、世界の図書目録作成の総本山となっている。因みに、紀伊國屋はOCLCサービスの代理店となり、従来からあった目録製作部門を統合し、情報製作部へと発展させた。この部門は、早稲田大学図書館の全目録の電算化を請け負うなど、年商30億円の規模となった。 DIALOGと代理店契約を交わした1978年当時の紀伊國屋の売上は、年商340億円ほどだった。松原氏が齢70歳に達したときに、それが1000億円になった。松原氏は、幹部社員を前にしてそのことを報告するとともに、純利益は40億円となり伊勢丹に並び、内部留保も200億円になったと、胸をはった。構造化した出版不況下という厳しい事情もあるが、2019年の売上は20年前と変わらず、1080億円、純益は8億円強という状況にある。こうしてみると、経営者としての松原氏も、紀伊國屋という企業自体も、ピークはざっと20年前であったと思われる。松原氏は、その後も長く経営に携わり、高名な出版ジャーナリストから、閣下と称せられたりした。氏は、「人との出会い、本との出会い」を大切に思う、根っからの書店人であった。 |