実践女子短期大学のこと
私が実践女子学園に就職したのは、当時同学園の短大図書館学過程で教授をしていた石井紀子氏の推薦によるものであった。石井氏は、日外アソシエーツの取締役からの転出者で、私のビジネス仲間で旧知だった。短大学科の一つに日本語コミュニケ―ン学科があって、そこで情報系の専門家を公募しており、東工大の原子力工学科を定年退職する予定の教授など数人が応募していた。この学科の前身は国文科であった。当時短大は、大学と専門学校からの挟撃、何より社会の大きな変化により、ピーク時50万人あった入学者が4分の1以下に激減するという凋落傾向にあった。中でも短大教育の花形であった国文系への入学志願者は、全体では10万人の志願者のうち、僅か2000名足らずしかいないのが現況であった。実践女子短大でも50年続いた国文科を改め、「日本語コミュニケーション学科」に科名変更を行い対応していた。科名変更に際して、コンピュータ・情報系などの実学系科目も加えたが、基本的には国文科の授業が踏襲されていたと思われる。2000年度の学生募集の結果は、定員161名に対し入学者81名に半減するという極めて厳しい状態となってしまった。学園としても、短大のドル箱であった伝統ある国文科の立て直しをはかるため、情報系の教員の増員に踏み切ったのであろう。 私は採用され学科の一員となって、担当する科目の授業の準備に追われた。しかし、100名に減らされていたものの、どのようにして定員を確保するかが学科にとって喫緊の重要課題であった。私は、就職直前までビジネスコンサルタントをしていたこともあり、このまま入学者が減り学科が廃止になったら沽券に関わると、深刻に思っていた。なぜ短大に学生が入学しなくなったのか、そもそも短期大学は社会にとってどのような役割を持つものなのかも考えてみた。所属した学科は、教養教育は申し分なかったが、短大のもう一つの大事な特性である、2年という短期に社会で通用する実務能力の育成教育に欠けていた。そこで、私は教養修得をベースにおいて、学科にビジネス・情報・出版の三つのコース制を設けることを提案した。私のコース制のイメージは、学科入学者全員がコンピュータ技術とビジネス能力に関する資格取得ができ、かつコース独自の専門性の高い資格にも挑戦できるというものであった。 私は自ら行動し、出版は日本エディタースクールとの間で専門講師の派遣と教材提供の交渉をまとめ、情報については情報科学技術協会の研究仲間に声をかけて講師陣を整えることができた。ビジネスコースの方は、言語の専任教員がいたので言葉とコミュニケーション能力をベースとした講座が用意された。当時短大部長には学科所属の教授が就任していたこともあって、短大内での議論もスムースにいき、学科を三コース制にすることができた。学科の教育理念と方針、各コースの教育内容を鮮明に説明したカラー刷りのパンフを首都圏中心とした全国約1000の高校の進路指導担当の教諭にDMを行った。年に何度かのオープンキャンパスでも学科のPRに努めた結果、2001年度の入学者は定員100名に減らされていたものの、定員オーバーを果たすことができた。その後も毎年定員オーバーが続いた。後に調べてみたところ、文部省の高等教育に関する規定には、学部・学科のコースには専任教員を置くこととあった。私は、各コースの基礎となる概論的な科目を受け持っていたので、期せずしてこの規定は守られていたのではないか思っている。 後の昭和大学との大学間の相互評価では、この学科改革の評価は高かった。また、定員割れを起こした短大の国文系学科が定員オーバーに回復するのは奇跡的ともいわれた。この学科がコース制を敷くに至った経緯、それぞれのコースの教育内容についての詳細は、学科誌「歌子」第12号(2004年)の「文学教育の新たな展開-実践女子短期大学のケース-」で報告されている。出版専門の学科なり専門コースを持つ大学は稀で、出版学会でも話題になった。私は折に触れ、学会の研究会で報告を行い会誌にも投稿し、実情と授業内容を報告した。また、実践の校舎で学会の春季研究発表会を開催するなどアピールした。この学会では、出版編集コースの学生たちが会の運営に協力し、会は成功裏に終えることができた。このコースの授業内容は全講座名、学生の授業理解度・満足度などを含め、2006年秋に出版学会と共催された東京経済大学コミュニケーション学部10周年記念シンポジウムでも発表した。「大学における出版編集教育-実践女子短期大学のケース-」として、シンポジウムの予稿集に詳細が記載されている。 ビジネス時代に大学や企業、図書館関係者に対して多くの講義・講演を行う機会も多く、大学に身を置いてみるのもいいかと思ったこともあった。実践でその念願もかない、短大生活は有意義で充実していた。定年退職後にも、同じ市内に住む当時の学長だった飯塚幸子先生とは顔を合わせる機会があり、ご厚誼を頂いている。先生は、大学・短期大学改革委員会などの座長を務められており、委員会でご一緒させていただく機会が多かった。委員会ではいつもシャープで建設的な意見を述べられ、学長として出色だった。同先生は、後援会などからの強い要望があって、実践初の同学出身で学長になった。また、初の女性学長でもあった。いまは、かみさん共々お付き合いいただいているが、晩年になってほんとに尊敬できる方と交流できる幸せを感じている。また、退職後10年以上たったが、教え子が結婚の報告に訪れたり、誕生した子供共ども会いに来てくれたりするのも嬉しい。 |