かみさんのこと
普通には、連れ合いのことは家内というのだろうが、私は親しみと敬意をこめてかみさんと呼んでいる。かみさんとは幾つかの共通点がある。まず、共に戦争体験がある。かみさんは昭和20年3月10日の東京大空襲を経験している。この空襲で家を焼かれ、親戚がいる山形の酒田に疎開した。住んでいた千住から列車に乗るために、上野駅まで歩いていくとき、道路一杯に焼死体があり、多くの人はそれを踏みつけて歩いていたが、かみさんは踏まないように避けながら、時間をかけて駅にたどり着いたという。一方、私も昭和20年の確か1月に、コロナウイルスの発祥地といわれている湖北省武漢三鎮の漢口で米軍の空襲に遭っている。この時、日本租界といわれる旧日本人居住地は、焼夷弾爆撃により灰燼に帰している。朝、空襲警報で学校の防空壕に避難して、夕方そこを出て家に帰ったら跡形なく焼失していた。この空襲は、米軍の東京大空襲のリハーサルだったといわれる。 |
かみさんは、疎開先の学校で授業を受けられたが、私は翌21年の夏に日本に引き上げるまで、授業を受けることはなかった。漢口から港(おそらく上海)まで、難民として持てるだけの荷物を持って集団で行進し、貨物列車にも乗って、港にたどり着いた。居住者は皆、日本に帰国できるかどうか不安を抱えて生活しており、帰国できると決まって皆が安堵していた。後で聞いたが、満州や朝鮮からの引揚者は、私たちより遥かに過酷な状況にあったという。敗戦後の生活はかなり悲惨で、苦しい生活のなか二人とも学費を自分で稼ぎながら大学を卒業した。
戦争体験をした二人は、あれこれ説明するまでもなく、大きな戦争被害者であった。明治憲法下の専制体制が生んだ、軍国主義にょる無謀な戦争により、私たち二人はもとより、家族全員の人生が狂わされた。司馬遼太郎氏は、戦争に負けて一番良かったのは、軍隊がなくなったことと言われた。私たちの世代の者にとって、戦争に負けて良かったという感情は、ごく自然にある。日本を民主主義国家に変えた戦後憲法は、いかに改正するかではなく、いかに守るかのほうが大切であろう。 パークサイド画廊
パークサイド画廊
パークサイド画廊の展覧作品のひとつ「薔薇」
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昭和39年のかみさんとの結婚式。恩師の宮川隆康氏、紀伊國屋書書店の松原治氏も参列。
2002年9月、コロラド州 パークサイド画廊にて次女と
二番目の共通点として、二人とも安保を経験している。安保反対デモにも何回か参加している。三番目の共通点は、二人とも教員の経験をしたことであろう。かみさんは第一高等女学校の最後の卒業生であった。女学校時代から、書道授業では良い先生に恵まれ、大学時代に書道の教職免許も取得した。大学在学中に高校の事務員をしたこともあったが、たまたまその高校に藤田霞畦という書家がいてその先生の個人指導を受けることもできた。その後この書道は身を助け、薄給のわが家の家計を支えたのは、かみさんであった。殊に、娘たちの幼稚園入園から大学卒業までに要した教育費は、かみさんの才覚で賄われていたといってよい。長女の県外の大学での生活費用、次女のアメリカ留学の学費・生活費は、かみさんが二十年にわたり運営していた、書道塾により賄われていた。 かみさんは、書道展に出品し、現在コロラド州のデンバーに居住している次女の縁で、コロラド日米協会でアメリカ人に書道を教えた。また、コロラド州ラ・ヴィータ市のパークサイド画廊にて書道アート展の開催もできた。これまでの書道審査展の受賞作品など多くの作品があったが、その大半を戸建てからマンションに引越すときに処分してしまった。マンションへ越したのは、2019年の7月であった。本人はまだまだ書きたいものがあるが、いかんせん手狭のマンションではそのスペースがなく大きな作品は手掛けられずにもどかしい思いがあるようだが、これまで続けてきたライフワークである書を、小さな作品でもどんな形であれ書き続けてほしいと願っている。
ちなみに、デンバーを中心に現在、アートスクールや地元の学校などで書道を教えている次女の提案で二人で書道教本を出版している。(本についての詳細はこちら。) |
2002年、デンバー訪問時の日米協会における書道クラスの風景。多くの人が集まり和やかなクラスとなった。